daniel氏が移ろう季節の中でで反応されてるので、わるのりしてネタを引っぱってみる。僕の主張は
時間が認識である以上、人それぞれ、とらえ方しだいということになる。また個人においても意識は変化するので、状況によって短く感じることや長く感じること(0から無限大)もありえる。例えば小学校の夏休み。あの1ヵ月余りが果てしなく長く感じたものだった。今(中年男)の1ヶ月が同じ長さだとは到底信じられない。また、別の例が耳呈さんの記事の引用元の時間の止め方にもあります。「確かに止まった」「いや錯覚だ」と両論あろうが、そのどちらも認識の仕方という点で共通している。では、もうひとつ例をあげてみよう。
東八郎はスーパーロボット「エイトマン」である。ハイマンガン製のボディに原子力エンジンを持ち、弾よりも速く走るのだ(イメージできない方はDBの孫悟空と読み替えてください)。新月の闇夜に立つエイトマン。その手にはマグライト(単一電池4本使用)が握られていた。前方に向け、おもむろにスイッチを入れる。その刹那、一陣の風を起こしエイトマンは走り出した!闇を切り裂いて突き進む光芒と並び、飛ぶように走る。早いぞエイトマン。彼は光の矢を追い越して回り込み、マグライトを持っていない方の手の平で光を受け止めた!!
どうだろう?スムースな絵が浮かんだとしたら、ある種の時間が流れたことになる。それが僕の筆力 人の脳の自由度の高さである。物理学では光の速度を超えることは不可能だが、意識に枷はない。稚拙な例を出すまでもなく、浦島太郎の御伽噺やコールドスリープを思い浮かべてもらえば、時間とは主観であって観察者と対象に依存することが解るだろう。以上が時の流れはどのようにも感じること(早く・遅く・止めること)ができるという証明になる。
時の流れが意識の数、人の数だけあると集団社会では不都合なので共通認識のための単位が作られる。地球の自転1回を1日としようとか、ある原子の遷移放射の10億倍を1秒にしようとか物理的な運動を基準にした。これが時計であり、認識の仕方の1手段である。(天体や原子の運動周期であるところの)5分間を一瞬に感じても、無限の長さに感じようとも矛盾はない。時の流れ(意識)と時計(物理的単位)を同じものと考えてしまうのは時を刻んでいるという幻想に支配され
た状態だ。時計のできる遥か以前より、時は意識の中を流れていたのだから。
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・・・という風に解釈させていただきました。
あまり「時間のスケール感」に支配されたくはありませんが、
計画的な人生を送るにはちょっぴり必要性もあるかな、と
( 娘のクリアしたTalesの最新作エンディング見ながら )
-30日00時
外的な記録だけが薄弱な根拠ではないですか?
ま、僕も解っていて書いてるわけではありませんが。-30日21時
それを他者にも認識させることでリアリティを強化する。
ゲーム世界での体験や、自己の中で生まれた物語さえも。
「人は何故ブログをレンタルするのか」
・・の答えも其辺にあるのかもしれません-30日22時
情報を記録することを思いついたことが、ヒトと動物のターニングポイントな気がします。その場にいない者、後から来る者に意思を伝えようとし、方法を考えた(これは時間の概念を持っていないと不可能です)。その策が成功したから、連綿とした文化・文明を築けたのだと。これは、語り部という装置だけではなし得ない。ヒトが途切れた時でも、次に渡せる方法がなければ、一から出直しですから。
古代人は、なぜ洞穴に壁画を描いたのでしょうね?風雨にさらされると絵(情報)が劣化することを知っていたのでしょうか。つまり、そうとうな未来(の誰か)へ伝えようと知恵をしぼったということか、あるいはただの偶然か。
今、僕らはどれほど未来を見据えてブログを書いているのでしょうか。
-31日21時